OKPのノート

日記を書きます

魚をキャッチしなくても、写真が撮れなくても満足できるよう

最近、魚釣りを少し再開しました。
コロナ禍で外出機会が…… みたいなこととは全く関係なく、Twitterのタイムラインに流れてきたシーバス(スズキ)釣りの様子を見て久々に釣りに行きたくなったのが切っ掛け。
ある日の金曜日、シーバス釣りの道具を引っ張り出してかつて散々通った多摩川下流の某所に出掛けてみました。結局その日はシーバスは釣れなかったのですが、その代わりに大きなナマズが私のルターに飛びついてくれました(ビワコオオナマズ以外では、今まで釣ったナマズでは最大級かも?)。足元まで寄せてきて、さてどうやってフックを外そう? ナマズって口に手を突っ込んでも大丈夫だったけ?なんて考えながら(なにせ久々なので)、持ってきた軍手を探しているうちにナマズはルアーを外して川に戻って行きました。
久々に魚の引きを味わったことが楽しかったこともあり、翌土曜日の朝にも近所の多摩川に出掛けてしまいました。今度の狙いはいつの間に多摩川に増えてしまったスモールマウスバス。実際の魚影やバス狙いの釣り人の存在など、以前から多摩川周辺での撮影の際に良さそうな場所はチェックしていたのでした。
久々に履いたウェーダーでズボズボと入って行った川の中、ものの数キャストで魚がヒット。かつて長野県の野尻湖で散々釣ったスモールマウスバスの引きと同じ、ギュンギュンした手応えを楽しんでいたのですが、残念ながら魚の姿を見ることなくバラシ(魚が針から外れてしまうこと)てしまいました。その後も、もう1匹掛けたもののやはり魚の姿を見る前にバラシ……。「バラシは釣果に入らない」とは昔釣りをしてた頃の常識ですが、2日連続で久しぶりに力強い魚の引きを味わったことで、私自身はそこそこ満足しました。
結局、その日の夕方と翌日の朝にもまた多摩川へ行ってしまうのですが(笑)、その後も魚をキャッチすることは叶わずで、スモールらしき強烈な引きと流れに乗られて糸を切られてしまったのが1回と、再びナマズを釣ったもののこの日もウェーダーで川の中に立ち込んでいたので、針外しのプライヤーを取り出そうと手間取るうちに、ルアーごとラインを切られてしまいました。ルアーを切られてしまったのは完全に自分のミスで、魚にはとても申し訳ないのですが、結局魚をちゃんと釣り上げてない結果ばかり。それでも私自身は久々の釣りを、かなり楽しんだ気分になっていたのでした。

話変わって、今年に入ってカメラ散歩と合わせて野鳥の撮影を始めた私ですが、始めのうちは見つけた鳥を写真に残すことに少し執着してしまっていた気がします。証拠写真として鳥の姿を捉えた上で、より鳥の姿がよく見える角度や距離で撮りたい……みたいな。何度もフィールドに通ううちにそんな気持ちは徐々に落ち着いて、また、双眼鏡で鳥の姿を遠くからじっくり観察する楽しさを知ってから、最初ほど写真を残すことに執着しなくなりましたが、今もまだ双眼鏡で鳥を見つけたらすぐカメラを手にしてしまう所はあります。
これも先程の釣りの話と少し共通するのかな……と。
写真にしても釣りにしてもどうしても成果(釣果、鳥果)を記録として残すことを求めてしまいがちなのですが、どちらも必ずしもそこがゴールという訳ではないんですよね。
写真は釣りのように対象を捕まえる行為ではないですが、動物にせよ風景にせよ手に入れたチャンスを少しでも良い写真の形で残したい気持ちが、どうしても強くなりがちな所があります(それがエスカレートするとカメラ界隈の様々なマナー問題とも関わってきますが、今回はそのレベルではなく)。
ようやく出会えた鳥(動物)を前にした際に、どうしても写真を優先したくなる気持ちはありますが、元々は自分の体験だったり感動した風景との出会いを記録したり、伝える手段としてスタートしたのが自分にとっての写真趣味のスタートだったはず。もちろん今は写真自体が趣味の1つなので、撮影したい気持ちが先に来てしまうことがあることは否定できませんけども。
良い鳥の写真を撮ることだけが目的ではなく、鳥を見た自分の体験を伝える手段としての写真もある(その上で良い写真が撮れたならば最高ですね)。分かっていてもどうしてもこの手段と目的はごっちゃになったり、優先順位が入れ替わってしまうこともあります(ブログやSNSなど発信が付いて回ることもその一因でしょうか)。何が正解という話ではありませんが、久々に楽しんだ釣りで以前ほど魚をキャッチすることに執着しなくなった自分に気付いて、写真についても同じように余裕を持てるようになっても良いのかな、と考えたりしたのでした。